1月24日(日)「メシアは主」
2021年01月30日
ルカによる福音書20章41~44節
- ここまで、ファリサイ派やサドカイ派の人々が主イエスに難問をふっかけてきましたが、逆に問う者が問われることとなった場面です。
- 旧約聖書でイスラエルに軍事的・文化的・政治的・経済的に最高の繁栄をもたらしたダビデと、人々は主イエスを重ねて見ていたのです。
- そこで人々は主イエスを「ダビデの子」と呼び、ローマの支配からの解放者としての力ある方と期待を掛けていました。
- そのことを受けて主イエスは詩編を引用し、ダビデがメシアを主と呼んでいるのに、なぜ主がダビデの子となるのかと問うたのです。
- ダビデを絶対者として仰ぐけれども、ダビデはメシアではなく、救い主の僕として使命を果たすだけの器ではないかということです。
- 彼らが理想として掲げる面も否定はしません。それよりも、ダビデも神の赦しのもとに置かれなければならない人間だったではないか。
- 主イエスはダビデのように権力で支配する者ではなく、人間の罪を背負い、赦しと愛の王としてわたしたちを担い、十字架に向かわれるのです。