7月3日(日) 「何か見えるか」
2022年07月10日
マルコによる福音書8章22~26節
- これまで数多くの主イエスによるいやしの業を見てきましたが、初めて一人の人に2回業が行われました。いやしにも段階があったのです。
- 主は、連れて来られたこの人を村の外に連れ出していやされました。その人が神の救いを直接受けるため、1対1の関係をもたれました。
- 主イエスのいやしには、直接触れるものと言葉によるものがあります。触れられるのは、苦しみに直接手を差し伸べられ救われることです。
- 言葉によるのは、御言葉の権威によるものであり、救いは御言葉によって与えられることを示します。どちらが有効かではありません。
- この人は、1度目のいやしでははっきり見えませんでした。主が苦しみの状況を尋ねつつ、もう一度いやすことで見えるようになりました。
- この人は村の住人ではありませんでした。「しるし」を求める人々に連れて来られたのです。奇跡を求め、悔い改めない町は責められます。
- 主は苦しみの中にいるわたしたちの手をとって連れ出してくださいます。「何か見えるか」と問われ、主イエスの姿を見つめ、歩むのです。